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夫人は、言った。
“ねぇ、セリム。 あなたは見た目は人と少しだけ違うけれど。でも、そのおでこにある模様以外、何が違うのかしらね?”
“でも、…おじさんは、ぼくのことがこわいみたい。バケモノになるかもしれないって……いうから、ぼく…っっ”
5歳の子は泣きべそをかきながら、すがりつくと母は膝を付き、体制を低くしてあやすように抱きしめ返した。
“ちっとも怖くないわ。セリムは、可愛い私の息子よ”
“ほんと!?”
“誰がそんな事、言ったの? お母さんが怒ってあげるわ”
“……知らないひとだよ。 グラマンおじいちゃんは、この前、アメくれたから、いいひとだよっ!!”
疑われ、心配され、見張られ、見守られ、
憎たらしいあいつの顔と同じだと身を引かれ、
良い子になるんだぞと頭を撫でられ、
たくさんの目が向けられているのを幼子は物心つく前から感じ取っていた。
だけど、それを気にさせないほどの大きな愛で夫人は包み込むから、幼子は雲一つない笑顔でいつも庭を走り回っていた。
7歳くらいになった時、セリムはプライドについて母から聞かされた。母も人から聞いた話だから、実際には見ていないらしい。
“良い? 今から言うことをよく聞くのよ”
“はい”
“もしかしたらね、セリムの身体の中には、良く無い事をしようとする心が急に出でくるかもしれないの。それを気持ちのままに、動くならとても危ない事よ”
“危ないこと?”
“人の命を奪う事もあるの”
“……っ!!!”
“……だからね、セリム。ひとつだけ約束してくれるかしら? 絶対何があっても人を傷つけないって。どんな不満の理由でもダメよ”
“でも、セリムなら他の人を大切にできるとお母さんは信じてるわ”
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「久しぶりです、エドワードさん」
ノックして名乗ると、エドワードは“開いてるから、勝手に入っていいぞ”と軽く促す。彼はそう言われると、足を一歩踏み入れ帽子を取りその場で会釈をした。
顔を上げた彼の額には前髪で隠れているが、髪の隙間から絆創膏が貼ってあるのをエドワードには見えた。彼はまだ15歳ほど。このくらいの姿を見るとエドワードは何処か懐かしく、親しみを感じた。
「そんな、かしこまるなって。外は寒かっただろ。よく来たな!」
その場で立ち止まったまま指示を静かに待つ少年に、陽気にエドワードは、迎え入れる。しかし少年は少し憂いの顔だった。
「ウィンリィ、コーヒー出してくれ!」
そして、少し遠くの方に居る妻に声を掛けると、はーい、なんてキッチンから返事が楽しそうに聞こえてきた。エドワードは、椅子を引き、客人を座らす。
「……大丈夫か、セリム」
「まぁ、なんとか…やってます」
少年は口元を上げたが、上手くは笑えてないように見えた。悟られないようにとぼけてみた表情。エドワードにはその心中が痛いほど分かった。
セリムは口を閉じてそれ以上、言葉にしなかった。開けば多分、次々に溢れ出て抑えられなくなるのを、怖れたのかもしれない。
「……」
「………」
エドワードも無言のまま静かに、くしゃくしゃとセリムの頭を撫でた。
「はい! お待たせ、セリム君。よく来たわね」
バタバタと先ほどの声の主であるウィンリィがキッチンから出て来ると、空気が急に彼女一人で明るくなった。そして、淹れたての温かいコーヒーを差し出す。
「熱いから気をつけてね、ちゃんと自分でふー、と覚ましてから飲むのよ?」
「っ! 大丈夫ですよ。そこまで、子供じゃありませんってば」
「そうね、つい」
と、ウィンリィは申し訳なさそうでもなく、クスクスと笑っているから、セリムもわざとため息を漏らして苦笑い。まるで、子供扱い。というよりも、母が自分の子への気遣いに似ていた。彼女には、まだ手のかかる幼い子も居るので、しょうがないといえばしょうがないのだが。
「で、エドは? ミルクと砂糖いる?」「要るか、ばか」
「冗談よ〜」
努めて笑って見せたウィンリィも、セリムが感情を押し込めているのに気付き、言葉を探しながら声をかける。
「私もエドもね。…大切な家族が死んでしまう悲しさは十分知ってるから、………無理しなくても良いのよ」
「ウィンリィさんもエドワードそんも、5歳になる頃でしたっけ」
「そうね。でもいつだって、どんなに歳を重ねても、人の死は耐え難いものよ」
「セリム、色々溜め込んでんだろ? 吐き出せよ。訊いてるからさ」
「……」
「ほら、我慢しないで。泣いたって構わないんだから」
何度か促して、セリムはようやくポツリと口にする。
「僕は、……義母さんに何か少しでも、できたでしょうか」
母はしなくても良い苦労も沢山して、本当は得ていたはずの幸せを得れずに損なっていたんしゃないか……。本当は、僕とそしてあの人に会わなければ、母は普通の暮らしをして今よりも幸せでいたのにと。
「何を言ってんだ、お前はよ!」
エドワードはそんな言葉を簡単に一蹴りした。
「お前は、ブラッドレイ夫人にとって生きる希望だったはずだ」
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かつてセリムは、プライドだった。傲慢に満ち、人の弱さを嘲笑い、利用した。人の心など理解せず、決して相容れることのない存在だった。エドワードと対峙した事もあったが、戦いの末にプライドの核だけを取り上げ、殺しはしなかった。エドワードの掌に残ったのは、小さな小さな赤ん坊。いや赤ん坊にも満たない胎児。それが今、目の前にいる少年にまで成長したセリムだ。
あの胎児にまで小さくなったセリムを託す時、夫人はとても憔悴していた。だからこれ以上、辛い思いをさせたくないと思ったがいずれ知ることだ。エドワードは、できる限り本当の事を話した。
夫も息子も人間では無かった事実は、どのくらい衝撃的な事だろうか。2人の安否を待ち続ける時間は、もう……。
だからこそ。
“すみません、セリムをこんなに小さくしてしまって…でも”
“生きてるのね……?”
夫人は、躊躇うことなく小さ過ぎる胎児を抱きしめた。セリムが本当はどんな者でも関係なく。
“良かった……っ! 無事で…、生きて…っ!!”
無事とは言いにくい以前と変わり果てたセリムの姿に対して、ただただそれだけを彼女は歓んだ。
“セリムを、お願いできますか………”
この子はまだ一人では生きられるはずも無い。捨てられたら簡単に死んでしまうほど無力だった。
とは言え、エドワードの独断で胎児化したプライドを生かすのを許すは、周りが何を言うか分からない。でもまずは何よりも、夫人の責任を担う覚悟が一番先だと、エドワードは思った。
“貴方がセリムを助けてくれたのね?”
“…助けた、なんて言えるかどうか……”
“ううん、いいのよ。ありがとう”
“ま、ま”
“えぇ。お母さんですよ。また会えたわね。セリム”
と、呼び求められて夫人は泣きながら微笑んでいた。
それが、エドワードにとっても救われた気分だった。殺すことも時には必要だと言われた中で、自分の意思を貫き命がけでセリムを助けて良かったんだ、と。ほら、やっぱり。
難しい話は、後日考えるから。
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「僕が人間でなくても?」
「そんなの関係あるかよ。夫人は気にしてたように見えたのか?」
「…ぇ、………………………っ!」
セリムは、頭の中で静かに思い返して、やがて唇を噛んだ。
「……ちっとも」
涙ぐむように言った。少年がいくら心を痛めても、笑ってしまうくらい母は一度も気になんかしていない。
「だろ」
額に刻まれた赤い丸印。
「プライド……」
人と違う事に幼いながら気づいたセリムは大人に尋ね聞かされた、かつての自分の名前を呟いた。
ほんの小さな少年には、酷だったかもしれない。でも2度人を傷つけないために、例え幼く理解し辛いとしてもセリムには教え込む必要があった。
傲慢、矜恃、誇り……。それら、声を上げて叫び、横暴に振舞ったけれど、今のセリムには全く無縁だ。
「自分が人より上でいたいがために、見下し、多少なら傷つけても、何をしてもいいと、人間の良心を失うくらいなら、バカなプライドなんて僕には要りません」
自分の弱さに負けないように、再度確かめるようにゆっくりと言葉にする。
「 僕には人より特化した誇示するものは、本当に何も無いけど。……そうですね。もし自分の事を唯一誇るものがあるなら」
下を向き俯いていたセリムは、顔を上げその瞬間キリっとして見せた。
「……母に育てられたことです」
たった一つだけ絞り出したセリムの答え。
夫人の願いである“起こさせない” むしろ誰かに進んで手を差し伸べる子になって欲しい。
それに応えるように少年は、傲慢とは正反対の謙虚な子へと育った。柔らかい風貌の少年は、簡単に人に呑まれ潰されそうに見えるが、実は芯は強い。
「この生き方を最期まで、守り抜きたいです。何が起きても絶対に」
自分の行いで母が恥とならないように、喜んでもらえるような人間になりたい。……そうじゃなきゃ、この救われた命に意味が無くなる。と、セリムは思った。
「あぁ、そうだな。俺たちは元々、何も持たずに産まれて来たんだ。誰かより優れてるなんて、ないんだよな。ただの人間だ」
何も持って無くても恥ずかしくない。無くて当たり前なんだ。だからこそ助け合って人は行きていけるんだ。
「母には、感謝しなければいけない事がある気がしているんです。返しきれないほどの、何か……たくさんしてもらったような…」
「覚えてるのか?」
「いえ……。でも、僕の知らない昔何処がで、何度も。言葉に出来ずに押し込んで塊になってる何かが、身体中で叫んでいる。そんな感覚に近いです」
エドワードはその答えを知っていた。確か、弟のアルフォンスが「夫人に助けられたのに対し、アレの息子を守る必死さは興味深かったとプライドが言った」と聞いた。プライドは、初めて大切に扱われたことに、驚きただ戸惑うことしかできなかった。そして、よっぽど強い想いだったのだろう。プライドはその想いに名前もつけられなかったし、夫人の愛に応えるには心が欠けていたけれど。
「やっと、お前にも届いたんだな……」
今、この場に夫人が同席していたら、どんなに良かったか。
いや、大丈夫か。とエドワードはすぐに思い直した。
「だから、その大きな感謝を…明日また、……返すことが出来ないのが、…心残りです……っ」
セリムは言いながら気丈に振舞って居たものの、ここで初めて涙ぐんだ。
「もう十分さ。一年半だっけか? 容体が悪くなってから付きっきりで側に居たんだろ」
「そんなの当たり前です!」
「例え当たり前でも、義務では無く心からするのは難しかったりするの。セリム君、お母さんにはちゃんと大好きだって気持ち、全て伝わってるはずだと思うわ。母親を侮っちゃだめだから。ね? きっと他の誰でもなく、息子がしてくれたんだから幸せだったと思うの」
ウィンリィが微笑みかけると、セリムは少しだけ安心したように、顔が綻ぶ。
「それでも、…やっぱり。喜んでくれる顔をもう見る事ができないのが、辛いです」
「……そうだな」
「お前は本当に、立派に育ったな。さすが、夫人の息子だよ」
多少、エドワードも当時は心配をしていた。もしかしたらプライドのような性格が蘇るかもしれない。可能性は拭えない。あり得ないけれど、万が一……と。でも今はもう、この少年を見れば心配する必要はないと確信した。
「ーーで、これからどうするつもりだ?」
「母のために、あの大きな家も取り上げあれずに軍の人たちは、守って下さったんですが…、一人では広過ぎます」
「なら、うちに来るか」
「ぇ、、そんな簡単にっ。それに僕の監視はまだ解けたわけじゃ…」
「俺が全責任を持つさ。そもそも事の始まりは俺だしな」
軽く言うエドワードに、セリムは呆気にとられてから、我に返りウィンリィの顔を伺った。
「まぁ、家の主が言う事だから逆らえないでしょ? …………なんてね。私も全然構わないわ。エドが、誰かを助けたい守りたいって言うなら、その気持ちを尊重する。私もね協力したいの」
「絶対にお前を殺させない。そのために、此処に呼んだんだ」
エドワードは、ニーナの事をふと思い出しながら言葉に力を込めた。生きて幸せになって欲しいと願って。
「此処で休めば良いじゃん、なぁ?」
「でも、迷惑かけるわけには」
「大人ぶってどうするんだ。子供は甘えれば良いんだよ。俺もな、アルと2人で飛び出したけど、結局、数え切れないほどの大人に助けられてた。そんなもんなんだよ」
「それにお前の肩には、抱えきれない重荷をのし掛ってるんだからよ。……此処は、とやかく言うような、なんの喧騒も無い」
にぃ、とエドワードは笑うけど、セリムはまだ申し訳なさそうにして、返事を躊躇った。
「…」
そんな矢先。
ワン、と一声してからドアが開く音がした。
「せ、………っセリム君が、…来てる、って、……ほんと?」
長距離を走って来たようで、ゼーゼーと息がかなり上がっていて、発した言葉は途切れ途切れだ。
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